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2006年12月14日 (木)

富士山と江ノ島

 今朝は小田急の車窓から、青空にくっきり浮かぶ富士山が見えました。こういう富士山を見ると心まで晴れやかになります。学生の頃、材木座に住んでいたので、天気のいい日には海岸から江ノ島と丹沢山系の間に富士山を見ることが出来ました。明るかった空が日没に近くなって暗くなり、富士山の白い山頂も黒くシルエットになっていく幻想的な光景が記憶に残っています。

 母は85歳になった頃、アルツハイマー病と診断されました。兄弟姉妹で相談し、最終的に老人性痴呆症専門の病院である御殿場のG病院に入院させることになりました。その病院は大変ケアーが行き届いていて、鎌倉の由比ヶ浜にある特養老人ホームに転院するまで5年間お世話になりました。はじめの3年間ほどは過去30-40年ほどの記憶を喪失したとはいうものの、大昔のことは案外よく憶えていました。2度の骨折にもかかわらず寝たきりになることなく、比較的元気に過ごすことが出来ました。御殿場は家から遠く、なかなか頻繁に通うことは出来ませんでしたが、月に1度は御殿場に出かけました。御殿場線は国府津からの便が1時間に1-2本しかなく、遅れると1時間近く駅で待たなければなりませんでした。国府津駅周辺には喫茶店もありませんでした。

 御殿場病院の2階には訪問者と患者の面会のための部屋があり、天気のいい日には母を促して2階に上がり、その応接室で昔話をしたものです。その部屋からは晴れた日には窓越しに富士山が間近に見えました。やはり鎌倉から望む富士山の何倍もの大きさでその壮大さに打たれました。富士山はやはり日本人にとって特別な存在なのでしょう。「私は一人で富士山に登ったのよ。」と学生時代の思い出を聞かされたものです。帰りにはいつも病室の出口で見送ってくれました。「病室の母戸口にて手を振りて我を見送り我も手を振る」

 その母が、2002年に七里ヶ浜の養護老人ホームに転院しました。こちらは私どものアパートに近く、ほぼ毎週 訪ねることが出来ました。たいてい日曜日の夕方でしたが、間近に江ノ島を望むことになりました。江ノ島は島のほぼ中心にあった灯台がシンボルでしたが、丁度その頃、古くなった灯台を壊して新しい灯台が建てられました。今度の灯台は前のものと位置も形も異なり、自分としてはイメージの転換に時間がかかりした。

 母を訪ねたときによく一緒に歌を歌いました。母が好んで口ずさんだのは「真白き富士の嶺」でした。母がこの歌を特になつかしそうに口ずさんだのには理由がありました。ひとつには母の父が逗子開成の理事か何かをしていたことがあること、もうひとつは母自身がこの曲の作詞をされた三角錫子氏と同じく七里ヶ浜に近い鎌倉女学院で10年間、教鞭を執っていたことによるのだと思います。

 富士山を見る度に御殿場病院の母を思い起し、江ノ島を見る度に七里ヶ浜の特別養護老人ホームの母を思い出します。

 

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コメント

好音斎Jr.さんの文はとても綺麗ですね。
情景の描写が美しく、目に浮かぶようで、本当によいです!


ちなんで、ちょっとご存知なさそうな話題(情報?)をひとつ差し上げます。(^_^)

「ヨコハマ買い出し紀行」というマンガがあります。
1994年から昨年までアフタヌーンと言う月刊誌に掲載されていました。
地球温暖化が進み、ランドマークタワーが半分水没した近未来、という時代設定の三浦半島のどこかを舞台に、アルファと言うアンドロイドが主人を待ちながらただ過ぎゆく時間をながめ続けるという風変わりな作品です。
ひたすら穏やかな作風で、シンプルで美しい情景の描写には、どことなく好音斎Jr.さんの文の美しさに通じるものを感じます。江ノ島や富士山もたびたび描かれています。

私の座右の書?のひとつでもあります(笑)。
チャンスがあれば、ぜひ一度、どうぞ。


(お母様のエピソードにはそぐわないコメントでごめんなさい。)

投稿: かぼ | 2007年1月 5日 (金) 18時13分

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